高校はどこに行ったか?
お待たせしました。笑
はい、高校は釧路工業高等専門学校電気工学科に滑り込みセーフで合格!!\(^^)/
私の高専時代はオタク道まっしぐらでした。
合格祝いに、まだ免許を取得していませんでしたが、FT-101E(10W改)というHF(短波帯)のトランシーバーを買ってもらいました。
私の高専時代はオタク道まっしぐらでした。
合格祝いに、まだ免許を取得していませんでしたが、FT-101E(10W改)というHF(短波帯)のトランシーバーを買ってもらいました。
だんだん、電子回路の知識が付いてきますと、いろいろといたずらをしたくなります。時効になっていますので............笑
当時のCB無線機は本体に送信ボタンがあって、片手にマイク、片手は本体の送信ボタンとなりとても落ち着いて会話できませんでしたので、分解して、ボタンのスイッチをリレーに置き換え、ハンドマイクで話せるように改造したり、アンテナを作ったり、いろいろやりましたね~パワーアップにも挑戦しましたが、これは回路の能力が足りず、根本的に作り直さないとダメだったので諦めました。
そんな日々を過ごしながら、学校ではアーチェリー部に入り、矢を射る毎日。へたっぴでなかなか上手になれませんでしたが、最終学年ではなんとか個人優勝できて良かったかなと思います。
思うに、5年生になると卒業研究をやります。そのため部活にはあまり時間を割けなくなり、休むことが多くなったのですが、そのような環境で得点が上がってきたのです。なぜでしょうね不思議でした。
たしか3年生の時に電話級アマチュア無線を取得し、毎日「ハローCQ、CQ」とやってましたねえ。
一番の記憶は夏休みかな~21MHz帯で徳島の人と5時間くらい交信しつづけたことです。全国に聞かれていたので、今思えば恥ずかしいのですが、ぶっ通しで交信していたと思います。
市内の人とは144MHzとで交信していました。凄く混雑していた記憶がありますが今はガラガラ状態。
携帯電話が使えなくても無線は使える可能性が高いので、持っていても損は無いとおもうのですが.....
学校ではオフコン?でフォートランの実習がありまして、パンチカードにプログラムを打ち込んで、コンピューター室に入り浸りました。
そんな時、NECからTK-80というマイコンピューターが発売になり、よいよ個人でコンピューターを持てる時代が来ました。
ちょうど4年生の正月にLkit16を購入し、自分で半田付けして、組み立てて、いざ電源投入!!
プシュー~~~~
とコンデンサーから煙が~~~~~
あちゃ~電源の極性を間違えたあああああああ。
(T^T)(T^T)(T^T)(T^T)(T^T)(T^T)(T^T)
ということで思いっきり落ち込みました。結構おっちょこちょい
(O型なのでおおざっぱだから??笑)
このLkit16は就職した後オークションで実働機を購入し、ちょっとだけ触って、当時の苦い思い出を消すことが出来ました。
ず~っと心に残っていたので........
その後PC8001を購入、BASIC言語に初めて触り、お~簡単にプログラムが走る~と。
でも、出来ることの限界もありました。
純正のマニュアルには使い熟すノウハウは無く、ネットも無い時代、本に頼るしか無いわけで、3000円以上もする解説本を購入し必死に解読しましたねえ。
このころの外部記憶装置はなんとカセットテープでした。プログラムの01を音に変調して、記録していました。
ガーピーガガガガってね。
知っている人は知っている。笑。
そのテープが伸びると、折角保存したプログラム読み込めなくなったりとか、いろいろと大変だった時代でした。
アスキーとかI/Oという雑誌のプログラムを必死に打ち込んでゲームをやったり、アッセンブリ言語でプログラムをつくったり、今のコンピューターから比べたら、もう雲泥の差ですけどね。
いまでも倉庫にPC8001が眠っています。
なんか処分できないんです。
そのころ、札幌のハドソンさんが、シャープのMZ80用にプログラムを販売していて、学校で使ったりしましたが、職人技のプログラムで私にはほんのちょっとしか理解できませんでした。ここから札幌のITは始まっていたのかなと思います。
話は変わって当時の高専修学旅行は工場見学旅行でした。
面白いのは、現地解散で、あとは自分で帰ってこいというもの。
これはチャンスということで、目指すはもちろんアキバ(秋葉原)です。
初めて、電気街を歩いて、その店の多さに驚きました。
一番の目的は「秋月電子通商」です。
安くてユニークな部品がいっぱいあり、整地じゃなくて聖地でしたから。
たくさん部品を買って帰ってきましたとさ。
TVでは、宇宙戦艦ヤマト、音楽番組ではザ・ベストテンが全盛でしたね。
で、就職はというと、やはり後を継ぐ関係もあり、取引先メーカーの前田金属工業(現TONE株式会社)となりました。
面接に大阪に行って、土瓶蒸しをお酒と勘違いしたことは内緒です。言っちゃた。笑。
こんな学生時代でした。
当時のCB無線機は本体に送信ボタンがあって、片手にマイク、片手は本体の送信ボタンとなりとても落ち着いて会話できませんでしたので、分解して、ボタンのスイッチをリレーに置き換え、ハンドマイクで話せるように改造したり、アンテナを作ったり、いろいろやりましたね~パワーアップにも挑戦しましたが、これは回路の能力が足りず、根本的に作り直さないとダメだったので諦めました。
そんな日々を過ごしながら、学校ではアーチェリー部に入り、矢を射る毎日。へたっぴでなかなか上手になれませんでしたが、最終学年ではなんとか個人優勝できて良かったかなと思います。
思うに、5年生になると卒業研究をやります。そのため部活にはあまり時間を割けなくなり、休むことが多くなったのですが、そのような環境で得点が上がってきたのです。なぜでしょうね不思議でした。
たしか3年生の時に電話級アマチュア無線を取得し、毎日「ハローCQ、CQ」とやってましたねえ。
一番の記憶は夏休みかな~21MHz帯で徳島の人と5時間くらい交信しつづけたことです。全国に聞かれていたので、今思えば恥ずかしいのですが、ぶっ通しで交信していたと思います。
市内の人とは144MHzとで交信していました。凄く混雑していた記憶がありますが今はガラガラ状態。
携帯電話が使えなくても無線は使える可能性が高いので、持っていても損は無いとおもうのですが.....
学校ではオフコン?でフォートランの実習がありまして、パンチカードにプログラムを打ち込んで、コンピューター室に入り浸りました。
そんな時、NECからTK-80というマイコンピューターが発売になり、よいよ個人でコンピューターを持てる時代が来ました。
ちょうど4年生の正月にLkit16を購入し、自分で半田付けして、組み立てて、いざ電源投入!!
プシュー~~~~
とコンデンサーから煙が~~~~~
あちゃ~電源の極性を間違えたあああああああ。
(T^T)(T^T)(T^T)(T^T)(T^T)(T^T)(T^T)
ということで思いっきり落ち込みました。結構おっちょこちょい
(O型なのでおおざっぱだから??笑)
このLkit16は就職した後オークションで実働機を購入し、ちょっとだけ触って、当時の苦い思い出を消すことが出来ました。
ず~っと心に残っていたので........
その後PC8001を購入、BASIC言語に初めて触り、お~簡単にプログラムが走る~と。
でも、出来ることの限界もありました。
純正のマニュアルには使い熟すノウハウは無く、ネットも無い時代、本に頼るしか無いわけで、3000円以上もする解説本を購入し必死に解読しましたねえ。
このころの外部記憶装置はなんとカセットテープでした。プログラムの01を音に変調して、記録していました。
ガーピーガガガガってね。
知っている人は知っている。笑。
そのテープが伸びると、折角保存したプログラム読み込めなくなったりとか、いろいろと大変だった時代でした。
アスキーとかI/Oという雑誌のプログラムを必死に打ち込んでゲームをやったり、アッセンブリ言語でプログラムをつくったり、今のコンピューターから比べたら、もう雲泥の差ですけどね。
いまでも倉庫にPC8001が眠っています。
なんか処分できないんです。
そのころ、札幌のハドソンさんが、シャープのMZ80用にプログラムを販売していて、学校で使ったりしましたが、職人技のプログラムで私にはほんのちょっとしか理解できませんでした。ここから札幌のITは始まっていたのかなと思います。
話は変わって当時の高専修学旅行は工場見学旅行でした。
面白いのは、現地解散で、あとは自分で帰ってこいというもの。
これはチャンスということで、目指すはもちろんアキバ(秋葉原)です。
初めて、電気街を歩いて、その店の多さに驚きました。
一番の目的は「秋月電子通商」です。
安くてユニークな部品がいっぱいあり、整地じゃなくて聖地でしたから。
たくさん部品を買って帰ってきましたとさ。
TVでは、宇宙戦艦ヤマト、音楽番組ではザ・ベストテンが全盛でしたね。
で、就職はというと、やはり後を継ぐ関係もあり、取引先メーカーの前田金属工業(現TONE株式会社)となりました。
面接に大阪に行って、土瓶蒸しをお酒と勘違いしたことは内緒です。言っちゃた。笑。
こんな学生時代でした。
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